明日は別の日

のんびりと、マイペースでブログを書いて来ましたら、結構長く続いています。元気出して行きまっしょ、というタイトルから、一新するつもりで。

検察審査会の在り方

 

 

検察が起訴に持ち込む時には、99パーセントの確率で、勝訴出来る場合だ、と元検事で、弁護士に転身している人達は、口を揃えて言っている。

 小沢さんの場合、とても起訴できないと検察がギブアップした。

マスコミは、こぞって、「限りなく黒に近い、グレーだ、という判断だ。」と報じた。

 検察の不起訴に、市民団体が告発した、というので、検察審議会にかけられることになった。

 検察審査会とは、一体どのようなものなのか?

 くじで、選ばれた、市民だという。どういう人物なのか、全く公表されない。

小沢さんの場合、二つの場所で、審査会があった。第7では、2007年の記載について審査され、結果は、『不起訴不当」だった。

 検察は、もう一度調べないしなさい、というもの。検察は、すでに、3度も小沢さんを、被疑者として、毎回4時間にもおよぶ尋問をした上に、不起訴とした問題、さらに4回目が、代表選の後で、行われた。

 この時には、第五審査会で、小沢さんを強制することが決定されていたということになる。9月14日に、決定していたのだから。

 強制起訴の、理由として、検察が、もっと熱心に、取り調べるべきなのに、その職務をおろそかにしているということが述べられている。

 つまりは、前田主任検事の事件が発覚したので、それが付け加えられたという格好。

 検察審査会、というのは、存在意義があるのか、と言うと、市民のチェック機能が働くという点にあるのだが、これまで、市民団体から告発された4件は、どれも、起訴相当として、裁判所に送られている。

 選ばれた市民の判断は、検察と弁護士からの説明によるものだけれど、これは、裁判とは、全く異質なもので、責任を、どちらに送るのか、『不起訴不当」なら、検察に、『起訴相当なら」裁判所に。

明らかに、潔白である、という判断は、出来るはずがないものなのだ。

 8人以上の人間が、賛成に廻れば、起訴に、中間ゾーンで、検察への差し戻し。

小沢さんは、検察に差し戻され、再び不起訴になり、2回目の審査会で、再び8人以上の人が賛成して、強制起訴が成立した。

一度目の二度目のメンバーが入れ替わった。こんなことをしても同じだ。

 裁判に選ばれた市民なら、重責を果たさなければならない。裁判所に出廷して、罪の判定をしなければならない。顔も出る。好むと好まざるとにかかわらず、責任を負う立場に立たされる。

 検察審査会で、ひっぱり出される市民は、お膳立てされた説明によって、それぞれの意見を求められるだけのもの。決まられないから、どちらかに、依存するようになる。

その結果、11人中、8人の賛成があるのは、当たり前の話。

 このような市民目線で、小沢さんのような、国を担うほどの人が、政局の道具として、扱われることに、納得がいかない。

 政治は、政治家としての命だ。その命を、軽々しく、扱ってしまう、検察審査会というものが、これで良いとはどうしても言えない。

 男性5人、女性6人、平均年齢、30才というのが、唯一公表された市民検査員。

 二回目の審査会は、裁判にかけるのか、これで、この問題にピリオドを打つのか、の判断を迫られる。責任をゆだねる道は、裁判所しかない。

 

 あなただって、こんな状況に経てば、そうならざると得ないでしょう。裁判官ではないのだから。

 検察審査会は、検察が冤罪を作り上げるのを抑え、チェックするためには、効果的な市民権であるが、検察が不起訴にしたものを、テェックする場合は、裁判所に送られる。

推定無罪」の原則が、無視されて、

裁判を待たずして、人民裁判にかけられる危険性がある。法とは別の「アウトロー」を支援することにもなりかねない危険性をはらんでいる