明日は別の日

のんびりと、マイペースでブログを書いて来ましたら、結構長く続いています。元気出して行きまっしょ、というタイトルから、一新するつもりで。

音楽評論家、吉田秀和さんの死

   

昨夜、遅くに、音楽評論家「吉田秀和さんを忍ぶ」という文字がテレビの画面に飛び込んできた。

 チェロリスト宮田大さんと小沢さんが指揮をする、水戸室内管弦楽団の演奏会で、小沢さんが指揮が体調を壊し、指揮出来なくなった時に、席を立ち、「楽団員は、指揮がなくても、演奏したいと言っています。その演奏を聞いてやろうと思われる方は、そのまま残ってください。」と会場につけかけたフアンに話される、吉田秀和さん。今年の1月のことだった。

 母は、ラジオでクラシックを良く聴いていて、吉田秀和さんの、解説がとても素晴らしいのだ、と言っていた。

 私は、名前は知っていたけれど、音楽フアンというわけでもなく、母のように、音楽が側になければならないような人間ではなく、聴くことよりも、観ることのほうに興味を持っているので、映画と音楽とか、演劇と音楽、ミュージカルと音楽、声楽と音楽、オペラと音楽、という関係でしか 音楽を知らない。

昨夜、「吉田秀和さんの言葉の芸術」を聞いて、これから、吉田さんの文章を読み、音楽を聴きたい、と強く思うようになった。

 今、「四季」を効きながら、書いている。

  吉田さんの言葉は、「詩の言葉」だ。手書きで、楽譜を貼り付ける作業が楽しいのだと言われる。書いたものは、何回も清書する。細かい所を書き直す作業が、楽しいのだ、と言われる。

 職人の仕事だ。音楽を造り上げ、作品が出来る。その作品を感覚と教養で掘り起こし、 音楽が表現するものを、詩の言葉で、再構築し、社会に結びつける仕事に専念された。

 

 バッハは、労働者だ、とマルグリット、デユラスが言っていた。

 吉田さんは、音楽から遠ざかり、自分の中に閉じこもっていた時期、バッハだけは、じゃましなかった、と言われる。

 ベートーベン、モーツアルト、バッハ、この3人につきる、と。

 母の妹は、母と同様に、音楽を聞きながら、家事をし、一人、音楽を聴いて、死ぬまで音楽を友にしていた。

 ベートーベンを聴いていると、胸がつまって、ハラハラと泣けてくる。ベートーベンを最も愛し、ベートーベンのお墓に参りたいと言っていた。

 「紙と鉛筆さえあれば、幸せだ。」とも

彼女は詩を書き、文章を書き。

 書くことは、労働者の仕事。職人の仕事。

 吉田さんは、細かい作業を延々と続けなければならない絵画について、「どれほどの忍耐がいることだろうか。」と絵描きに聴いたら、「それが楽しいのだ。」という答えが帰って来た、と。

作品を造る楽しさは、その過程にある。労働の喜びにある。 夢中になって、それと取り組み、あれこれと修正し、自分が、求めてているものに、試行錯誤の末に、たどり着こうとすることが楽しいのだろう。

 私は、誰かに「あなたは造らない人ね。」と言われたことがある。

 私は、本当の喜びを知らずに生きているのだろうか。いや、生きているのだろうか。 詩と死は、同じ表音。